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 牛歩状態になってしまった実家での片付け作業、
先日は京葉線の記念切符のお話をいたしましたが、
今回はまた目新しい発掘を・・・
江戸時代の古銭。。。

 寛永通賽やら小判型の古銭が実家の畑から発掘され、
大切に私めが保管してあったもの。

 そんな実家の畑、私めの祖先が
江戸時代の開拓によっていまの地に
移り住んできた来たようですが、
如何せん、お寺に預けてあった
家計図が戦争で燃えてしまい、
江戸末期から以前はまったく分からない状態、
我が家の七不思議、ミステリーでありまして。。。

 そんな中、私めの祖父が生前、
畑で作業をしていると色々と
面白いモノが出てきたようで、
古銭をはじめ、戦後の耕運機導入前なんぞには
土のおはじきのような物
畑から貝が沢山
出土・・・
私めが小学生の頃には
野菜くずを埋めるために同じく祖父が穴を掘ったら
牛1頭分の骨
が出て参りまして。。。(驚!)

 よくよく考えてみれば我が家から
東に進めば谷地があり、
縄文時代頃は入り江だったのか、
付近には貝塚などが確認されており、
実家の畑も貝塚があったのかも知れませんねぇ。。。

 さて、そんななか今回、
実家の私めの部屋から出てきた古銭、
・ 寛永通賽 3枚
・ 天保通賽 1枚

といったわけで、寛永通賽などは時代劇なんぞの
テレビでも御馴染みではございますが、
もう一枚の小判型通貨・・・

 ネット上の世界的辞書で調べてみると、

天保通宝(てんぽつうほう)とは、
江戸時代末期から明治にかけての日本で流通した銭貨。
天保銭(てんぽうせん)ともいう。
形状は、小判を意識した楕円形で、
中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「天保通寳」、
裏面には「當百」と表記され、
金座後藤家の花押が鋳込まれている。
銅製で、重量は5.5匁(約20.6g)。

天保6年(1835年)に創鋳された。
貨幣価値は100文とされたが、
実際には80文で通用した。
いずれにしても質量的に額面(寛永通宝100枚分)の
価値は全くない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も
相次いだという。
明治維新後も流通したが、明治24年12月31日を
最後に正式に通用停止となった。
明治以後、陸軍大学校卒業者が付けた徽章が
天保通宝に似ていた事から「天保銭組」と称せられた。
その一方で、新通貨制度では天保通宝一枚=8厘
(寛永通宝一枚=1厘)と換算されたために、
新時代に乗り遅れた人やそれに適応するだけの
才覚の足りない人を揶揄して「天保銭」と
呼ぶ事もあったという。

なんとも、価値があるんだか、
ないんだか分からん古銭ですよねぇ~(苦笑)

 今後も大事に保管して置きたいとは思いますが、  
いずれは子供たちに譲り渡すことになろうかとは
思いますが。。。(淋)