続? さくら の のほほん道楽絵巻

仕事よりも趣味最優先・・・毎年の目標は趣味道精進! そろそろ家族に捨てられそう。。。(汗;)

日々の備忘録。。。

 軽い健忘の方も時間の経過とともに記憶は戻り、
元々居た整形外科へ再転院する事になった。

 その後は約2ヶ月の入院で右足の骨は完治するも
左足は骨がバラバラになっていたのも原因なのか、
腓骨は不細工ながらも骨が癒合するも
脛骨はなかなか完治する様子は見られなかった。

 5月に事故を起こし、なかなか骨が癒合しない左足を見ながら
仕事復帰への不安などで謂れのない不安感や焦燥感、
不眠症などが原因で鬱状態になっていた。

 その年の12月に医師から腰の左側腸骨から
骨を削り脛骨に骨移植の案を医師から提案されるも、
心停止、意識不明になった恐怖もあり
首を縦に振ることは出来なかった。

 ただ、3ヶ月と言う期限付きで骨が治癒しなければ
骨移植と言う条件にしてもらった。 

 しかし、残念なことに3月まで骨が癒合する事はなく
骨移植決定、手術への恐怖はあるものの、
仕事復帰への目途が立ち、復帰という目標が出来てからは
精神的にも立ち直れそうだった。

 移植手術は腸骨と呼ばれる部分から骨を削り、
骨折した場所の骨芽細胞が死んでしまった部分を除去し、
新たに腸骨の骨片を移植するというもの。

 移植手術の際に、歩行に支障する腓骨のワイヤーを
抜去してもらうことにした。

 術後、足はギブスで固められ、
左ひざの左側の少し下の部分に術部の足の腫れを
防止のためか血抜きのドレンタンクが付けられ、
300ccほど血が溜まっていた。

 退院時に1ヶ月間ギブスで固めておくという事で
新たにギブスで固め直されることとなり、
処置室でギブスの色選び・・・
ギプスも色が選べるということで青色を希望、
これならジーパン履いてしまえば目立たないといった利点が。

 1ヶ月が経ち、待望のギプスの除去となったのだが、
足は痩せ細り、まるで
   鶏がらスープ用
に使うような細い足に・・・
正直、ここまで来るとリハビリも大変であった。
 
 ただ、確かに骨移植の威力と言うのは
素晴らしいもので
4月にOPをし、
9月にはボルト等が入っていながらも仕事復帰。


 だがこのプレートとボルト、色々と困ったこともあり、
職場の旅行で訪れた函館空港で見事に金属探知機で反応、
ボディーチェックを受けるハメに・・・
だけど、羽田空港は何故反応しなかったんですかねぇ~?


 また正直なところ、消防隊の勤務では
自分の足の状態で
厳しい面もあったのも事実、
走ると左膝に力が入らないのである。



 恐らく、埋め込まれているボルトが足の動きを
抑制していたのかもしれないが火災現場や災害現場などで
力の入らない左足に正直参っていた。 


 翌年の1月になると医師からプレートとボルトの
抜去(ばっきょ)手術の話があり、
やっと人造人間から生身の人間に
戻れる日が来たと内心思った。



 抜去手術自体、両足30分ほどで終わるとの事で、
2日目には自力歩行可能、6日間の入院生活で退院、
ただ、3週間程はプレートを外した脛骨の表面は柔らかいから
走ったり、無理しないようにとクギをさされ、
Dr指示に従い、3週間は自分なりに大人しく生活していた。


 今回の手術でボルト、プレートの抜去をした
お陰か分からないが、
走ると左膝に力が入らない症状は解消しており、
仕事への大きな不安は取り除かれた。


 その後は、消防隊の機関員を担当していたので
現場で走るなどの事は少なくなったため、
足への負担は減ったものの、
骨折した時のトラウマか、走ること自体への不安が・・・
骨折前の100%の状態ではないが7~8割方の状態。


 現在、救急隊を担当しているが患者を背負ったり
搬送する負担がかかる時でも足の方は問題ないものの、
後遺症みたいなものは今でも時々出ており、
天気の悪い日や雨が振り出す直前、
寒い時などは
両下腿とも痛んだりするという具合。


 一度、心停止を経験した救急隊員なんて傍から見たら
おかしな話かもしれませんが、
実際体験した事であり、

あの時、自分がそのまま死んでしまっていたら・・・
一体どうなっていたんだろうか?と。。。

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 今回は昨日の続編を書かせて頂こうと思っております。
中にはこんなことはウソだ!と思う方も
いるかもしれませんが
実際に体験した話です。。。

 手術後、病室で意識が朦朧とする中、
痛み止めに座薬のボルタレンを
入れてもらうも
痛みは治まることはなかった。


 そして今の時間が日中なのか夜なのかもさえも
把握する事が出来ていなかった。


 次に目を開けたとき、部屋の明かりが消され
夜だと分かるも足には重く鈍い痛みが続き、

「イテーな、バカヤロぉー!!」
口走って目をつぶった事までは記憶しており。。。

 その後、自分は自宅の畑道を
自宅方向に歩いていた・・・ 

畑一面は夏の土の様に乾いているものの、
空は曇天、今にも雨が降り出しそうな空模様。


 トコトコと畑道を歩いて自宅の庭に到着、
庭から縁側を通して居間を覗くと、
祖父がいつもテレビを見る位置におり、
白装束を着た姿で座っていた。
正直、不思議と言うかなぜ?と思った、
自分の祖父は1年前に他界していたのだから。。。

 そのうち、後方が騒がしく振り返ると
庭には植木などが植えてあり、

その様子は普段通りでなんら変わりはない風景、
しかし正面を向いた時、様相は一変・・・
それまで実家の庭から居間を覗いていたはずなのに
深緑色の大草原に風景は変わっていた。


 空模様は相変らずの曇天、遠くに小高い丘が見え、
風が深緑色の草をサッと揺らして流れていく光景が広がり、
その風景はいまだ脳裏に残っており

 だけど、自分が何故そこにいるのか、
何でここに来てしまったかも分からない。
淋しい場所とでも言った方がいいのか。
 
 どれくらい時間が経ったのだろうか、
特に歩を進めて歩くわけでもなく、

その場で景色を眺めていたのですが、
心というか、気持ちは
淋しいながら
もとても安らいでいた。



 すると突然、後方に強い力で吸い込まれ、
気がつくと救急車の車内でストレッチャーに寝かされ、
サイドの開いたスライドドアから
薄ピンク色の病院の外壁が見え、

顔に付けられていた酸素マスクを
懸命に外そうとしながら、

「外したい!」と文句を言いたくても
言葉を発する事は出来なかった。



 もちろん私自身は気がつく術などはないのですが、
夢を見ていた時に心停止していたようで、
原因となった「脂肪塞栓症候群」から意識不明になり、
心停止までを引き起こしていた・・・。

 そんな自分に突然降りかかった脂肪塞栓症候、
折れた骨の中から脂肪滴が滲み出て血管に入り込み
肺塞栓と脳梗塞を起こしたとの事。

 後日談ですが、
3次病院から整形外科に戻ってきた時に、

自分の様子を目撃していた入院患者サンに
教えて頂いたのですが、

大部屋から処置室に移され
心臓マッサージをされていたそうで。



 この時、入院患者さんに言われた事は
話半分で気にしていなかったのですが、

後年、ボルトと金属プレートの抜去(ばっきょ)のOPで
入院した時に
看護助手サンとレントゲン技師サンから
心停止の事実を聞き、
患者さんが言っていた
心臓マッサージは間違いなかったと分かり。



 心拍再開後、整形外科から3次救急病院へ転院搬送され、
それから5日間は意識不明。


 全身管理のため、痛み止めは使えず、
痛みで唸り声を上げていたと家族は言っておりましたが、
自分自身、意識不明時に強い痛みを感じることはなく、
色々と夢を見ていた事は覚えており。。。


 5日間、意識不明と言っても呼びかけには
しっかり目を開けていたらしく、
呼びかけをやめると
すぐ目をつぶるという行為を
繰り返し傾眠傾向だったそうですが、

意識不明から醒めても
今度は軽い記憶障害というのか
健忘症状が待っていた。


 のちにICUからNCUへ部屋も移されたあと、
無意識のうちに暴れたり自力で立ち上がろうとしたために
ナースステーションで手足を束縛されて寝かされていた。


 おまけに夜中に目が覚め
バルーンカテーテル(導尿)が入っているのに、

尿意を催しベッドから自分の足で立とうとするが
足先を床に付くだけで

妙な痛みが足先から伝わり立つ事すら出来ない。


 何も出来ない自分に腹を立てながら
ナースステーションに設置されているの
パソコンの花びらのスクリーンセーバーを眺めていた。


 そして、自分の名前はしっかり分かっているも、
肝心の職業が出てこない、
一番初めに搬送された病院名も出てこなかった・・・
おまけに食べると言う行為も忘れていたらしい。

 この軽い記憶障害というのか健忘症状は1週間ほど続き、
職業は言えるようになっても
最初に搬送された病院名が相変わらず言えない。

 車椅子をあてがわれるようになり、
公衆電話で電話をかけようにも
自宅も友人の家の電話番号さえも出てこない、
「一体自分はどうなってしまったんだ!」と・・・。

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 さて、上の写真のネジと言うかボルト、
なんだか分かりますか?
実はこのボルト、材質はステンレス・パナジウム鋼、
自分の両足に埋め込まれていた16本、
骨移植手術で8本取り外しで
10本で留め直した計18本のうちの1本のボルト。

 抜去記念と言うかなんと言うか、
埋め込まれていた1本をオペ室の
看護助手の方にお願いして頂いたモノ。

 今から8年前、
厄年もあと2週間で終わりだ♪
考えながらスクーターを運転中、
自分の運転ミスで車と出会い頭に衝突。

 車との衝突の衝撃で左足下腿骨が折れた、
というか「ボキッ」っと音が・・・
衝突後、6mほど吹っ飛ばされて右足から着地、
全体重を支えきれるはずがなく右下腿の開放骨折し、
その際に左足も無意識のうちに着いたらしく、
左足も開放骨折。。。

 事故後、病院到着して分かったことですが、
雨天のためにある程度の厚着をしていたので
開放骨折でも骨が履いていたジャージで保護され、
骨部分が衣服の外表に飛び出さなかったため、
開放骨折の事実は病院まで分からなかったようで。

 実際に開放骨折が分かったのは
病院到着後に処置室での話、
医師曰くジャージのおかげで
骨が飛び出さなかったと言っていた。

 ちなみにこの時の雨天の格好で
ジャージ、ウインドブレーカー、
レインコートを着用していた。

 事故発生直後、腕立て伏せをするように
うつぶせに着地して頭や胸などは強打しなかったが、
両足先がジーンと痺れると同時に
足の痛みで気を失いそうに・・・
自分はうつぶせのまま足が動くかを確認、
とりあえず両足先の指は動くことは確認できた。

 
 とりあえず体育座りの姿勢になり、
よくみると左足が明後日の方向に向いて・・・
プチホラーの気分を。。。

 その時に事故の相手方が
自分に近づいてきたので詫びをいれ、
怪我人がいないかどうかを確認、
どうやら相手方には怪我人はいないよう・・・
ただ、自分は動ける状況ではなかったので
119番要請をお願いし、
じっと救急車の到着を待っていた事を記憶している。

 その間、折れた箇所は少しでも動かすと
焼け火箸を突っ込まれたように
熱い激痛が走り何度も気を失いそうになった。

 その後に救急車が到着、
とある有名な整形外科に搬送されたのですが、
上記の両下腿開放骨折と分かり医師から緊急手術の宣告。
その際にレントゲン写真を見せてもらうと、
初めに右足の写真をみると単純骨折と言う感じで少し安心、
だが、左足の写真を見た時に絶句した。

 脛骨・腓骨とも折れており、
脛骨が3分割、腓骨がことごとく
バラバラになっていた・・・
精神的に大きなショック。。。

 ただ運が良い事に搬送された病院自体がその日、
手術日だったという事もあり、
手術を予定していた人には申し訳なかったが、
緊急OPということで自分が一番手に手術、
準備はスムーズに進んでいた。

 そして手術室に搬送され手術台に移され、
本当にこれが「まな板の上の鯉」という状態、
そして執刀前に医師からこんなことを言われてしまった。

Dr:「状況によっては足の切断の
  可能性もあることは承知してください。」 


と。。。

 のちに医師から教えて頂きましたが、
開放骨折の場合だと、骨の消毒をしないといけないということ、
しかし自分の場合はジャージのおかげで骨が地面に
直接触れることもなかったので
感染症の恐れは少ないであろうとの事であった。

 術後、麻酔から目が醒めるも
何か夢うつつという感じだったが、

慌てながらも恐る恐る両足を触った、
しっかりと両足は付いている・・・

足切断からは回避されたことに自分は医師に感謝した。

 手術も右足にプレートと8本のボルト、
左足に同じくプレートと8本のボルト、 
バラバラの腓骨を串刺ししたように
通したワイヤーで骨が固定されていた。

 だが、本当の悪夢はこれからだと言う事に
自分はまだ気がついていなかったのだが・・・。

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 さて本日は、仕事明けで
Kei ワークスの燃料補給のために
そのままスタンドに直行・・・
給油に最中にふと思った事がひとつ。

 最近は給油時に私め自身が気を付けているので
このような事はなくなったのですが、
なぜか我が家のKei ワークス、
有人スタンドやセルフスタンドで給油中、
満タン寸前に給油ストッパーが作動すると
いきなりガソリンが給油口から噴出する事象
度々発生。

 ん~、最近のスズキ車って、
みんなそうなのかなぁ~?と、
考察しながら考えていると、
Kei ワークスの配管は
写真の通りの配管なのですが、
この配管方法に問題あるのですかねぇ? 

 確かにいつもお世話になっている
車屋サンの代車、スズキアルトも
同じような状況になった事を思い出し。(写真1~2)

 三菱ミニキャブのように見るからに
給油しずらそう、こぼれそうっていうなら
給油も気をつけて行うのですが、
ミニキャブの給油口も管が細いため、
ノズルサイズと配管のサイズが
お互いにぎりぎりのために
様子が分からなくなるというのも、
考えてほしいものですね、三菱さん!(写真3~5)

 ただ、Kei ワークスに関しては
初めての給油で噴出事故が発生し、
正直、腹も立ちましたねぇ、
まさか噴出してくるとは思いませんから。。。

 まぁ、まだ私め自身が仕出かした事なので
諦めがつくのですが、
これが有人スタンドであらかじめ
「こぼれ易い車だから気をつけてね。」
と忠告しているにも関らず
こぼされた日には・・・。ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 


 Keiが納車されて2ヶ月目くらいの頃、
自宅から7~8分行った場所にあるスタンドにて
こちらも大きなお世話とは分かっているが、
新車だけに言いたくなるのも心情。

 店員に
「こぼれやすいから気を付けてね。」
と一声かけたのだが、
聞いてるんだか聞いてないんだか・・・?

 給油後、店員の奴、
しらばっくれて雑巾でボディーを拭いてたから
なおさら頭にきた!
「おいッ!お前は人の言うこと聞いてなかったのかっ?」
と、思わず怒髪天となり!

 後のことは想像にお任せしますが、
ここのスタンドは自分の友人も
店員と色々と揉めており
仲間内ではとっても不人気なスタンドなんですけどね。

あえて名前は言いませんが、
確か日本で初のセルフスタンドになり損ねた所です。

ホント、店員の質悪い!最悪!!

 もともとランクルなんかはセルフで給油、
Keiもそれ以来、セルフで・・・
こぼしても自分の仕出かした事だから、
まだ諦めがつくということで。。。

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 さて、本日はお泊りのお仕事ということで、
クルマの作業に用いる工具のお話でも・・・
クルマなどの作業用工具との出会いは
私めが免許を取ったのが平成5年、
もう10年以上前のこと。

 当時、浦安にある巨大テーマーパークで
バイトしながらやっとこさ
ローンを抱えて購入したパジェロに使うために
オートバックスだかどこかで買った
エーモンのメガネレンチが始まり。

 私めの実家の隣に住む幼馴染が同じく
「車いじり」が大好きと言う事で、
国道6号線沿いにある原工具さんに
連れて行ってもらっていたのですが、
スナップオンやらハゼット、
ファーコム知らないメーカーの工具が勢ぞろい。

 社長もさすが工具好きが嵩じて
お店を開いただけあって所狭しと工具が並び、
分からない事があると懇切丁寧に
教えてくださりありがたかったですねぇ~、
まぁ、ここ数年は使う工具もほぼ揃い、
足を運んでいないのは淋しいところですが。

 結局、その時はスナップオンのラチェットやら
ソケットを色々と買い込んで帰宅、
その後も使い易い工具は片っ端から買い込んでいく始末。

 正直、パジェロのローンを払いつつも
バイトで得た収入は殆ど工具に消えていたような・・・
恐らくコンプレッサーやボックス、
ジャッキ等など工具だけで
100万円以上は購入のために
使ったんじゃないかな?と。。。

 ただ、チェストボックスだけは
傷物で安く販売されたものを購入・・・
使っていれば傷つくのは当然の話、
その方が色々とお得ということで。。。

 ただ、憧れの一流メーカーの工具もいいですが、
庶民派工具のエーモンやらトネの工具なんかも
良いものが沢山あり、
その辺は上手に購入して併用。

 正直、庶民派工具の方が使い勝手が
良好って時が多々ありまして、
その辺は上手に使いこなそうと。。。

 さてさて、写真に写るシルバーのジャッキ、
パジェロに乗っていた時代に購入、
市販で安く売っているガレージジャッキでは
パジェロクラスの重量だと
スグ壊れてしまうことを学び、
ジョイフルホンダにて購入。

 重量は2.5tパジェロクラスなら楽々持ち上がり、
購入から7~8年経ちますが、未だに現役。

 車庫証明の張られた赤い3tジャッキは
ランクル購入後のタイヤ交換の際、
シルバーのジャッキではフロントタイヤが
持ち上がらない事が判明、
急遽、なけなしのお金をはたいて購入、
抑揚も60cmあり使いやすい反面、
ジャッキ自体が非常に重く、
コンクリの床を転がすと地響きが・・・。(笑)

 工具もピンからキリまでって訳ではないですが、
高いものを買えば間違いなしかと思っていた自分も
色々と工具を購入するうちに安い工具でも
しっかり使えれば充分に役立つという事は
勉強になり・・・
また近いうちにお世話になった
原工具さんにでも行ってみようかなと。。。 

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